2017年2月28日火曜日

落ち込んでもマトリックス

まだ人の少ない朝レストランで一人旅気分満喫


























ひどく、ひどく、ひどーーーく
落ち込んでいるとき。
自分の内面と何かが戦っている。

私がすごーく頑張っている。
悲しい、辛い、寂しい・・・

でも、何が?
って自分に問いかけてみると、
そうでもないことに気づく。

ただチョット疲れて、
サボりたくなっているだけだったりする。

それでも、どんなときでも、
習慣をひたすら実行できる人は
やればいい。
それが最高のアクションだ。

でもね。
私は今はできないんだよね。
だから、
落ち込んだつぎは、
ハイになる。

沈んだら浮かび上がる。

しゃがめばしゃがむほど、
ジャンプは高くなる。

そう信じて、何をしようか考える。

無理はしない。

そうだマトリックスを見よう。

まだ一度も見ていない。
メンターのおすすめ映画。


毎日の習慣は大事。
だけど、いろんなアングルで
物事を捉えるのはもっと大事だよね。

私の弱さ・・・

体が動かなければ、
頭を使えばいいじゃない。

動くところを使って生きよう。
生活しよう。

美味しいお家ご飯をお腹いっぱい食べて、
オーガニックコーヒー飲んで、
マトリックスを鑑賞する。

私スタイル。

今日は曇り空で、
肌寒い。

そんな天候が一番苦手。

地球、自然界…
いつもポカポカ陽気な訳がない。

どんなに暗い日中でも、
どんとこいの私になりたいね。

どんな今日の私も、
未来は明るい。

あなたの今日を
どんな気持ちで過ごしていますか?

未来の可能性は平等です。

自分の未来を自分で描くのじゃ。




なにがあっても書道

海外旅行は地球の裏側へ 飛行機内




いつも引っ込み思案。
お先にどうぞ的な生き方が私流。

何をやってもマイペース。
競争心がない。
資格取得に魅力を感じなかった。
人生の計画性がなかった。

でも、冷静に考えてみると、
誰かが私をサポートくれていたんだよね。
そんな経験を思い出す。



若いころは、なぜか年上の女性に
面倒をよく見てもらった。

素直に人さまの好意に甘えていた頃が懐かしい。

歳をとってくると、
そんな機会は激減する。

もちろん、
若者の中にも面倒見のいい人はいる。
でも、人生の先輩には、
安心感がある。



たとえば書道を習いに行った
そこまでは私の意志。

その後、

仲間が篆刻に導いてくれた。
俳句に出会わせてくれた。
美術館や博物館に一緒に行ってくれた。

当時わたしは、関西に住んでいたので、
大阪・神戸・奈良・京都と足を伸ばした。

デパートでも、
頻繁に絵画展や書展が開かれていたので、
美術品に触れ放題の環境だった。

私の書道の幅を
広げるキッカケをくれたのは仲間。

仲間との自然な別れ。

私は、
生活の変化に対して、
問題解決しなきゃならない時、
目の前のことだけにとらわれがち。

将来のための計画性がないから、
今の生活を維持しつつ、
同時進行をしようとう発想がない。

長期的にスキルを磨きながら、
目の前の問題を解決する。

そんな聡明な考え方ができなかった。


つまり、
『病気の母への親孝行は
私が早急に結婚すること。』

そう思い込んだら、
そのことしか考えられなくなった。

結婚、結婚、結婚。
当面の目標は結婚すること。

書道の道具一切を人にあげた。
書道に関する本もすべて。

着るものもスキルもすべて捨てて結婚した。

でも、ここでも無計画だった。

結婚することだけが目的だった。
その後のことは考えていなかった。

子供ができた。
子供は愛しい、可愛い、私の最愛の分身。
でも、愛情はあるけど
育てることに情熱を持てなかった。

家族単位で成長しようという考えも芽生えなかった。


ま、結婚して色々ありすぎて、
かなり頭が混乱していたから
仕方がないといえば仕方がない。

私たち夫婦に降りかかってきたこと。
それを不幸・不運としか
受けとめることができなかったから。
それが長〜く続いた。

ずっとずっと悲劇のヒロイン気取りだった。
私は長期に渡りバカだった。

そんな話は今日はしない…



私が寄り道をしている間に、
仲間は、恩人は、
会えないところに行ってしまった。

会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。

会いたい人が沢山いる。

『教師の中にもこんなに物分かりのいい先生がいるんだ。』

そんな風に私の先生像を書き換えてくれデッサンの先生。

無欲で淡々と篆書と篆刻を教えてくださった先生。

自然体で、やっぱり無欲な印象の強かった俳句の先生。

みんな私の好きなタイプの先生だった。

書道仲間のお姉さまにペン習字を習った。
素敵な女性らしい書家だった。

油絵の先生に花梨の実をいただき、
20号くらいの作品を描いた。

コーヒーの麻袋と花梨。

懐かしい。


そして、

どうしてあの時、
自分が恵まれていることに
気がつかなかったんだろう。

そうすれば習い事、
続けていたかもしれない。

しっかりとしたスキルが
20年前に身についていたかもしれない。

先生とのご縁を大事にしていたら。

若気のいたりって、
もったいないことをするんだな。



実は、大切にとってあるご縁がある。

一回り上のかな書道の先生がまだまだ若々しい。

ユーチューブで、チラッと
数年前の近況を知ることができた。

でも、それ以上の情報はない。


その先生にも、
可愛がっていただいた。

それになぜもっと感謝して
ついて行かなかったんだろう。

今更そんなことをいっても始まらない。

が、

とにかく私は書道に戻ってきた。

書道と私。

書道と先生。

書道と使命。

私は筆を持って、
自分の失敗を生かすのだ。

私が先輩にしてもらったこと。

導いてもらったこと。
助けてもらったこと。


でも、足りなかったのは、
人の人生の全体像を把握すること。

どんなに平均と違った生き方をしてきた私でも、
死なずに元気に生きている。

夫も元気で子供も元気。

お金は自己投資と、
いい歳をして訳のわからないことを言う。

時々夫に悪くて涙がでることがある。

でも、私が悩んでいると、
夫はいつでもこんな風に締めくくる。

「人生は一回きりなんだから、

後悔しないように生きなよ!」



帰りたい帰りたくない心境。機内のモニターから見る夕焼け。






























2017年2月27日月曜日

ある書家の心理・父母・トラウマ

トランジットのドバイ国際空港 夜中の4時間過ごす



















ドバイ国際空港内アジアン・レストラン1時間後には満席になった。



























私って中途半端だなぁ。

反抗期だって無駄に長かっただけ。

ちゃんと反抗の理由を述べたことがなかった。
だから長引いたんだと思う。

親や先生に反抗心を、
100%出し切ったわけではない。
だから、未だに消化不良っていうか、
発散できていないような気がする。


もの言わぬ反抗。

心で不満をもっていた。

たとえば、父親に対して。

私は机のスタンドの明かりをつけて宿題をしていた。

父親が夜、
酔っ払って帰宅して言った。
「おー、勉強してるのかぁ」

父親にしてみれば、
なに気なく言った言葉だったろう。

でも、私は、からかわれたような、
すご〜く嫌な気持ちがした。

こんな時も何も言い返さなかった。

父といえば、
なぜか真っ先にこの情景を思い出す。

母にもそうだった。
心の中ではいつも思うところがあった。

母親とはこうあって欲しい。
こうあるべきだ。

母は職業婦人だった。

外で、頼られ慕われていた母。

今思えば、私は寂しかったのだろう。

甘えればいいのに、甘えられない。
私にもこうして欲しい。
素直に言えなかった。

お母さんのこういうところが嫌だ。
そんな風に言葉で反発できなかった。

母親は反面教師だ。
なんて、偉そうなことを思っていた。

高校3年生の時の先生に対しても、
文句は言わないけど、
大嫌いだった。
でも、なぜかこの先生をよく覚えている。

顔や容姿が未だに目に浮かぶ。

今は嫌いでもなんでもない。

当時、毎日のように遅刻をしていた。
それも反抗の表れだったのか。

わからない。
でも、
反抗心は溢れるようにあったのに
言葉の暴力はしなかった。

なぜだろう?

先生に反抗するのも
学生生活の一部みたいなもの。

そんな感じだった。

学生生活の他に
興味のあることがあった。

だから、それでよかったのだ。

ただ、私は父親や母親の愛情に
飢えていたような気がする。

今おもえば…

小学生の時は、母が大好きだし
尊敬していた。
そう素直に作文に書いたのを覚えている。



小3の担任がすっごい贔屓をする先生だった。
大嫌いだった。

4年生の時は待遇が真逆になった。
若い男の先生は、とっても穏やかで優しかった。

先生のお手伝いをして下校が遅くなると、
よく帰りにうどんを奢ってくれた。
ほかの友達とともに。

本当に学校が楽しかった。
ところが、その先生が、
学年の途中で新しい学校に転任になってしまった。

あー、私って悲劇〜。

その後の学生生活は、
可もなく不可もなく。
普通に楽しいかったと思う。

高3だけ異常に反抗的だったが。


これまでの私は、
母を追い求め続けた人生だった。

母が死ぬまで、
私の思いを素直に態度に
表すことはできなかった。

母は母で、多くを語らないタイプだった。

話の途中で私が、
「なぜ?」と聞くと、
いつも答えは一緒だった。

「言わんでもわかるやろ」
と、バカにされた。

本当に私も母も、
二人のコミュニケーションに対して
説明不足もいいとこだった。

今なら、
母の立場に立って考えることができる。

でも、目の前のことに、
その時々の感情に翻弄されつづけた。

お互いがお互いを常に
「なんで?」
と思っていた。

本当に、私は
相手の心を読むのが
苦手といおうかなんといおうか。

自己中心的。
自分以外の人を理解しよう
という気持ちが欠けていた。

本当に恥ずかしいったらありゃしない。

私は、家族のためにとか、
母のためにとか
思ったことあるのかな。


病気の問屋だった母。
病院に行くと安心できた母。
極端に病院嫌いだった私。

母と私、
こういうところは正反対だった。

しっかり者の母。
子供を頼らない母。

なんだか頼りなげな私。
夫がいて子供がいる。

でも私が一番頼りにしていたのは母だった。
母は存在感のある人だった。
そばにいてくれると心強かった。

だから、いつもそばにいて欲しかった。
でも、母は一人暮らしを好んだ。

今になって母を思い出すと、
誤解していたことや、
見えなかったことが良く見える。


母は、実は私と同じことを
追いかけていたんだと思う。

お互い求めあう気持ちが強かった。

お互いのことをいつも考えていた。

でも、言葉と態度が素直じゃなかった。

何も言わなくても満たして欲しかった。
親子らしい態度をとって欲しかった。
親子らしく優しくしてほしかった。

お互いに・・・

なんだか母と私は悲劇のヒロインみたい。

でも、人の人生って、
こんなものかもしれない。

誰だって、
人生をさかのぼってみると
いろいろ悲しいこととか
トラウマとかあるんじゃないかな。

長く生きていると、
辛いことも上書きされて、
忘れていることがあることに気づいた。

子供のころからのトラウマがあった。
でも、新しい辛い出来事に、
心は占領されてしまう。

でも、
隠れてしまった昔のトラウマも
未解決のままなんだよね。

こころの傷は残っている。
年月とともに、
確かに記憶は薄らいではいる。

記憶の写真は、
セピア色になっただけ。

もし、私と母が、
ギャーって取っ組み合いの喧嘩をしていたら、
どうなっていたんだろう。

仲良くなれたのだろうか。

ギャーーーーーーーーって、
私は母の胸にぶつかりたい。
いますぐ。



エミレーツ航空・機内食 私にはおっぱいに見える。














2017年2月26日日曜日

超乾燥肌がコレで潤う

オーストリッチ配合のオールインワンジェルとクリーム





















以前、
一味唐辛子で唇がヒリヒリする。
と話した。

でも、
あるものをつけることによって、
唇の荒れが一気に解消した。

それは後で・・・


昨年は肌断食の実験の年だった。

気温が高い時には、肌断食は具合がよかった。

しかし、寒い時期に入ると、

何も付けないと
顔のシワシワが目立つようになった。

かなりかなり頑張ったんだけど、
ほんとうにまずいことになってしまった。

法令線どころの騒ぎではない。

もう外に出られないのでは?
というレベルにまで顔じゅうが
小シワだらけになってしまった。

上唇の上や顎の周り、目の周り、
張りがあるはずの頬にまでが
シワだらけだ。

どういうこと?

私は、あせった。

シワ対策。

最初にしたのは、
オリーブオイルパック。

寝る前にオリーブオイルを塗って寝てみた。
朝、いい感じだと思った。

ずいぶん前、
カカトにオリーブオイルを塗って
ラップを巻いて寝たことがあった。

それで、カカトのガサガサが
見事に綺麗になったので、
顔のカサカサにも効くかなーと思った。
それが理由。

ほんとうに効果はあったんだけど、
持続性がないというか…

時間が経つと乾燥してまたカサカサが戻る。

なので、ニベアを塗ったり、
ホホバオイルを塗ったりした。

やっぱりダメ。

1年くらい何もつけていなかったので、
顔に塗るクリームの類がない。

何かないかと探していると、
オーストリッチクリームが入った
オールインワンジェルを見つけた。

早速塗ってみた。

藁をもすがる思いだった。
なかなかいい感じだ。
続けて塗った。
いいと思う。

買った当時は効果がわからなかった。
肌断食のために肌が飢えて吸収がいいのかな?
と思った。

とにかく良さそうだ。
お試しサイズなので、すぐになくなった。
見るとオーストリッチクリームも残っていた。

塗ってみた。
なかなかいいかも。

容器の中身が少ない。

今回のシワシワ事件はショックが深い。

オリーブオイルのつぎに、
はちみつパックをしてみた。

はちみつも確かによかったが、
オリーブオイルの時と同じく、
持続性がない。

仕方がない。
ついに美容液を買おうと決心した。
が、何をつけても効果がない私は、
お金をドブに捨てたくなかった。

なので、はちみつ入りか、
オーストリッチ入りのクリームを
試してみることにした。

はちみつパックも、
オーストリッチも
効果があるなと感じたから。

どちらにするか迷ったあげく、
先にオーストリッチクリームを購入した。

手持ちのクリームが底をついたので、
即、顔に塗ってみた。
が、思ったほどではない。

私の頑固なシワ顔。
顔じゅうのシワが
突然伸びるほうがおかしいかもしれない。

あ〜、どうしよう。

旅行も近いのに、
仲間や師匠に会うのに、
シワシワじゃ恥ずかしいよ〜。

オーストリッチクリームの姉妹品に、
最後の望みをかけることにした。

注文した。

下手すると旅行に間に合わない。
念のため最速での配送を希望するメモを残した。

海洋性コラーゲン配合らしい。
なんだか効きそうな気がする・・・

お店は私の願いを聞き入れてくれて、
旅行の前日に届いた。

早速塗ってみた。

いい感じ。
本当にいい〜

もう後はない。
今はこの化粧品を持って、
旅の人になるしか術がなかった。

オーストリッチコラーゲンジェルを
ジップロックに入れた。

機内持ち込み用のリュックに入れた。
すぐ取り出せるように外ポケットに。

初海外旅行のため、心配事が山ほどあった。
ネットでいろいろリサーチをしていると、
機内ではかなり乾燥すると書いてあった。

これは大変だ!

それでなくても、
しわくちゃババなのに
これは絶対ジェルを塗り続けないと、
えらい事になる。と、思った。

仲間にシワシワの顔をみられたくない。

そんな女心が残っていた。

こんな乾燥肌の人はみたことがない。
というくらい私は珍しい肌質だ。

街を歩いていても、どこに行っても、
私のようなシワシワの女性なんて
そうそうお目にかかれない。

100歳越えのおばあちゃんならいざ知らず。

まだまだ若い。

酷すぎる。

と、嘆いていても仕方がない。


結果的に、
今回買ったジェルは私に合ったようだ。

旅行でもまさかの褒め言葉をもらった。

「年下の3人と比べても一番肌がきれいだね。」

信じられなかった。

行きの飛行機では、
何度かジェルを塗った。

でも、
帰りは全く塗らなかった。

それでも、乾燥は気にならなかった。

帰宅してからも、
これ一本。

オーストリッチオイル配合の、
コラーゲンジェルだけで全く不満はない。

いいものに出会えたなぁ。
しめしめ…


ただ、私の肌には
もう一つ問題点がある。

それは、
ほかの化粧品を使えないことだ。

たとえしっとりクリームを
下地に塗ったとしても、
UVカットのクリームを塗ると、
たちどころに小じわが露わになる。

日焼け止めでも、ファンデーションでも、
塗った直後はリキッドタイプなので、
ピカピカネットリしている。

ところが、
塗って数十分もするとカサカサになる。

これが悩み。

なので海外でも、家でも
日焼けどめは塗っていない。

次の課題は、
乾燥しない日焼け止めクリームを探す事。


そうそう、
一味唐辛子で唇ヒリヒリの件。

オーストリッチクリームを顔に塗ったら、
知らぬ間に唇がしっとりしていた。

決して、荒れた唇を
なんとかしようとした訳ではない。

勝手に唇が修復されていたというコトです。

オーストリッチクリームは、
人間の肌質にに近いのだそうです。

買って損はないクリームだと思いますね。
特に冬場は重宝します。

価格も安いです。
税込2700円。

コラーゲンジェルモイストワンの方は、
ちょっと高くて3908円。






2017年2月25日土曜日

書道を離れて謎の海外旅行

ドバイ空港で買ったお菓子





















帰路、
ドバイから日本まではエミレーツジャパンだった。
当然といえば当然なんだけれども、
日本人客が目だって多かった。

日本人乗務員も数人乗っていて、
ことばの不便はなかった。

機長の挨拶も日本語。
タドタドしいけれども、
なぜか心温まるメッセージだった。

この度はエミレーツジャパンを
ご利用いただきありがとうございました。
的な内容だった。

エミレーツとエミレーツジャパン。
二つあるんだなと思った。


今月の11日、
日本を旅立ってから、
英語の必要性を痛感していた。

機内でもホテルでも、
英語か現地のことばで
当然のごとく話しかけられる。

機内では、ポイントさえ押さえて
ハプニングさえなければなんとかなるかな。
って感じ。

飛行機に乗り込むと、
1時間後くらいに必ず食事が出た。
その時に聞かれるのが、
メニューどちらにしますか。

たとえば、チキンorマトン?
オムレツorスクランブルエッグ?
飲み物はりんごやマンゴやオレンジジュース。

コヒー?紅茶?グリーンティー?。
水?炭酸水?。
こんなことを聞かれる。


着陸が近ずくと、
毛布、ヘッドホン、を集めにくる。

途中は、シートベルト着用と
トイレが使えるかどうかを
チェックしていればいい感じ。

基本、シートベルト着用時には、
トイレは使えないのだが、
タイミングによっては使用することができる。

離陸後すぐとか明らかに
着陸間際でなければ
トイレに行けた。


現地のホテルでは、
予告なしの訪問に驚いた。

何を言っているのかわからなかったが、
室内の掃除に来てくれたのはわかった。

身振り手振りで、ミネラルウォーターをもらったり、
ティッシュやトイレットペーパーも
余分にもらったりした。

ウォーターやペーパーという言葉は通じた。

ベッドメイキングはしなくていいよ。
と言ったつもりだったが、
夜部屋に帰ってみると
ベッドは整えられていた。

お互い笑顔とありがとうの気持ちは通じたのかな。

謎の現地の人は愛想がいい。



トランジットだけでも楽しめたドバイ






俳句と書と理想の師

紅梅白梅、まだまだ寒〜い朝









































かな書道仲間が句会へ誘ってくれた。

俳句の先生は、岡野洞之。

私からすれば理想の師だった。
先生としても文人としても、
人間としても。

お金の匂いがなかった。
商売っ気を感じなかった。

俳句を郵送で添削を受けるときは、
500円を為替で送ったのかな。

句会はいくらだったかな。
その日、その場で支払った。

いつも純粋、純朴な句会だった。

吟行にも何度か参加した。



少しの間、文章を習った先生も、
たしか公務員だった。

デッサンの先生も高校の先生だった。

固い職業について、
文芸やアートに没頭する。

岡野先生もそんなタイプだったのだろうか。

当時、無欲すぎた私は、
ほんとうに流れのままに
すごい人にお世話になった。

私はその道を極めるまで、
ご縁が続くことはなかった。

いつもの気まぐれで…

でも、これだけは言える。

先生方がお元気であれば、
いつだって会いたい。
すっごく会いたい。

大大大好きな先生たち。

今更だけど、
出会いに感謝。

素敵な師との思い出は、
私のこころの財産、宝物。




ゆで卵むけばかがやく花曇

この俳句との出会いは、
衝撃的だった。

中村汀女の句。

白く輝くゆで卵の白身と
一口食べた黄身の色が美味しそう。

でも、外は曇り空。
桜の花が背景にある。

割烹着すがたの主婦が描いたようなさもない俳句。

俳句は名所旧蹟に出かけて行って作る。
そんなイメージだった。

家の中にも俳句の種があるんだな。

いつどんな時でも人は感情が動く。
それを俳句にする。

その日の一句は、
自分の感情日記。

いまも大きく感情が動くと、
俳句ができる。

五七五の17文字が
勝手に浮かぶ。


最近も人生まさかの出来事が起きた。

その時の一句はまだ内緒。



書道とサツマイモのおやつ

なぜか書道をやめない私。

はじめて習い始めた先生は、
大河ドラマのタイトル文字を書いていた長浜光。

祈りの書と呼ばれ、
書のパフォーマンスは、
よくマスコミにも取り上げられていた。

TVで良く見かける有名人が結成した
ファンクラブもあった。
なので、その活動は
華々しいものだったと記憶している。


長浜先生は、
NHKから大河ドラマの依頼がくると、
決まってタイトル文字を100枚書いた。

そのうちの50枚をスタッフが持ち帰って、
会議にかける。
そして一枚を決定するという流れだと言っていた。

長浜先生の教えかたは面白かった。
お手本は、半紙の縦半分に切ったサイズ。

先生の書の特徴である
躍動的でおおらかな平仮名を今も覚えている。

教室での書の練習も手本と同じように、
半紙を二分の一に切って使用した。

たくさん書いた中から数枚を選んで、
先生に見てもらう。
すると、
「書いたもの全部持っていらっしゃい」
と先生。

えっ?と思ったけど、
急いで持って行くと…
「ホラね、いいのがコッチにいっぱいあるじゃない。」

この日以後は、常に
書いたもの全部を見てもらうようになった。


先生はよく食べることでも有名だった。

パフォーマンスには太巻きがつきもので、
腹ごしらえをしてから書き始める。
そんな感じだった。

私が通っていた小さな教室には、
生徒が数人、5〜6人もいたのかなぁ。

書道教室は、午後3時とか4時とかから
はじまったように記憶している。

お稽古の時間内に決まって
先生のおやつタイムがあった。

ある日、先生が
「食べる?」と聞いてくれた。

その日のメニューは、
さつまいもを丸めたもの。

さつまいも好きの私は、
もちろん遠慮なくいただいた。

半透明のタッパーにゴロゴロ入った、
黄金色の薩摩いも。

サツマイモと砂糖のまったりとした甘みが、
今も先生の記憶とともに残っている。



私は、なぜか長浜先生の元は離れた。
理由は…。

わからない。
興味が他の何かに移ったのだろう。

まるで、集中力のない子供みたいだな。
と今思った。



その後また、
今度は正当派の書道教室に通うようになった。

漢字とかな別々の先生についた。

本格的な臨書を学び出した。

面倒くさがりの私なのに、
なぜか書道をやりたがる。

文房四宝。

墨、硯、筆、和紙。

その他もろもろ、
私は和モノ好きなので
興味津々だった。

文人、高僧が書いた掛け軸の文字。
これらにも惹かれた。



かな書の仲間に誘われて
俳句を始めた。

俳句との出会い。

ことばをそぎ落としていくスタイルは、
私の思考パターンに合っていた。

この時、
私の本格的なことば遊びが
始まったのかもしれない。





2017年2月24日金曜日

書道と母親

富士山を見ながら散歩



書道・・・

なんで私は書道をやっているんだろう?

書道は得意分野だった。
高校で書道部に入った。
でも、いつの間にかやめた。

私にとって書道は、
家族みたいなものかな。

そういえば、
大学の書道科に行こうとしたり、
なぜか韓国に書道留学をしようとしたり。

そんなこともあったなぁ。

いろんなことを思いついては、
いつの間にか消えていく。

そんな感じだったね。
私のパターンって。

もっと早く知りたかったよ。

いろいろ習い事をやった。
その中の一つでも極めていれば、
今頃、その道で生きていると思う。

でも、
見事に、すべてが、完璧に途中下車。

アホちゃうか!
って感じ。



母はしっかりしていた。
5人姉妹のおトンボだったが
すべての姉たちから頼りにされていた。

そんな母は、
従軍看護婦になりたくて、
看護師を志した。

実際、終戦になったので、
戦地には行けなかったが、
母は看護師を全うした。

一度も平(ひら)をしたことがない。
そう言う母は管理職一筋の人だった。

母は、自分の子供だから、
私も勝手にわが道を見つけて
歩むだろうと思っていた。

それは、
大いなる勘違いだった。

母は、黙って私を見守り続けた。
死ぬまで。


目の上のタンコブだった母を亡くしたとき、
私は、生きる意味を失った。

母のいない世界を生きるくらい価値のないことはない。
そう思った。
毎日毎日嘆き苦しむ日々が続いた。

なんとか立ち直ろうとするが、
どうすることもできない。

悲しくて悲しくて、
毎日が悲しみのなにものでもなかった。

一年は毎日泣き明かし、
二年目から泣かない日が少しづつ増えて行った。



母を亡くして2ヶ月後、
夫の母も遠い世界に行ってしまった。

その前にもう一人、
心の支えだった大事な人を亡くしていた。

この3人が一度に、
私の手の届かないところに行ってしまった。
たった二ヶ月の間に。


私という人間の
大部分を占めていた人たちの死。

一気に訪れた喪失感。
頭では理解できなかった。
とまどいとこんらんが私をぐるぐる巻きにした。


感情の大津波に飲み込まれそうになっていたあのころ。

今は、ここまで冷静になれた。

以前の私なら、
母のことを話し始めると
すぐに涙が溢れ声が震えた。

『母を思い出すとすぐに涙』
そう決まっていた。



書道に話しを戻すと、
母の字がすっごく綺麗だった。
私の中では、上手よりも格が上だった。

母のいいところが全部入っていた。

私は、そんな母の字を見て育った。

自然に母の文字から
ミラーニューロンを受けていた。

だから、書の好みは、
母の書く文字の影響を強く
受けているかもしれない。

私は、字が上手といっても、
端正な文字が書けたわけではなかった。

ただ、習った覚えはなかったが、
鉛筆で書いても、
起筆や曲がり角などを筆文字のように書いていた。

中学の時、
私の字を真似ていた友達がいた。

それがチョット変わっているなと思ったのは、
大人になってから。

なんというか、
書は、習うという感覚ではなく、
私と共にあった。
っていう感じかな。

あ、でもチョコっとだけ
習ったような記憶がある。

小学校のときに。

たぶん、
お試し入門くらいしか
やっていないと思う。

そろばん、書道、塾。

なんでもチョコっとだけしか
続かなかったな。






今の夢は書道家?

一番やりたかったことをやらずに生きて来た。

自分の固定概念で、すべての道を潰してきた。

バカみたい〜

今だから思える。

私はやりたいことはやった。
ある一部に関しては。

でも、やってきたジャンルが偏っている。

チョー面白いことは
やっていない。

私はいつの間にか、
習い事が趣味になった。

お茶・お花・書道・油絵・ピアノなどなど

でも、そこに夢はなかった。

だから、
簡単にやめてしまったし、

ずっと以前ににすべてと言っていいほど、

習ったことを忘れてしまっている。


結婚しても懲りずに習い事を続けた。

なんで?

埋めたかったんだよね。

多分

こころを。

自我をぶつけるところを探していた?


夢を諦めるとロクなことないね。

って、最近気づいた。



私がやりたかったこと

パッションがあったこと・・・

狂言役者になりたかった。
でも、女性では無理!
と、諦めた。

藤山寛美の弟子になって、
喜劇役者になりたかった。

でも、女性では限界があると思った。
どうころんでも、女性には、
浪花の喜劇王の後は継げないと思った。

(藤山直美さまは日本が誇るコメディエンヌになった)

コントや喜劇の作家になろうと思った。
欽ちゃんに弟子入りする筈だった。
でも行かなかった。

欽ちゃんに恋してしまったから。
よこしまな気持ちで弟子入りしてはならない。
そう思った。

「だったら、
よそへ行けばよかったじゃん。」

今ならそう思える。

当時の私は、
欽ちゃんに傾倒していた。

当時の欽ちゃんの取り巻きが
面白かった。
パジャマ党とかいう軍団。

青島幸男さんとか、
ほかの人はよく知らないけど、どっちみち
当時のお笑い界を引っ張っていた人たちだよね。



夢がない・・・

子供が巣立った。

ワーイ第二の人生だぁ!


自由だ、さあ、なにやろう。
と、思った時、
やりたいことがみつからなかった。

頭の中が、シーンって感じだった。

以前の私なら考えられない。

私は、なんでもかんでもやりたがる人だから、
いつだって趣味はすぐに見つかると思っていた。

好奇心のかたまり。

見る→やってみたい→そくアクション。

そんな感じだった。




2017年2月21日火曜日

謎の時差ぼけと戦う

初の成田空港。夜遅いせいか閑散としていて寂しかった。





















はじめての海外旅行。
時差ボケとはなんぞや?

異国の地に着き、
『これって時差ボケかなぁ。』
と思った。

帰国してから、
『あ、これが時差ボケだ!』
って確信した。

そんな私の体験談です。
しばらくお付き合いくださいませ。



夜遅く帰宅した翌々日。

今日は、普通の朝っぽい。
でも、やっぱり夜中といえば夜中だよね。
3時30分だから。

19日の22時半くらいに帰宅して、
翌日起きたのが16時。

それでもまた眠くなって寝たけど、
夢を見て起きる起きる。

極め付けは、オコタに寝ている私が、
オコタごと2〜3m引きずられたこと。

ガタガタガタガタガターーー!!!!!!

ものすごい音だった。
ぶったまげた。
ドロボーかと思った。

起きたら殺されるかも。

ガンガンガンガン…
夜中なのに、
すぐそばで鳴り響く。


今思えば、夢か現実がわからない。

外から聞こえてくるかと思えば、
隣の部屋から聞こえてくる。

時計を見たらまだ夜中の2時20分。

そのちょっと前、
午前0時半ごろに一度目を覚ましている。

もう寝たくない!
ほんとうに怖かった。
でも、脂汗などは出ていない。

大きな大きな爆音に包まれていた。
あの時間はなんだったんだろう?

もう、夢か現実か全く見分けがつかない。

聴覚、視覚、体感ともにリアルすぎる。

外での騒音、隣室での大音量。

そしてオコタと一緒に引っ張られ、
その時の爆音。

それは、
飛行機の中で聞いた音と、
機内で身体が受けた感覚と似ている。

そのことに気がついたら
ドロボー、侵入者への恐怖心が
薄らいだ。



エコノミーシートに30時間繋がれた。

この経験は、私にとって
生易しいものではなかったんだな。
と改めて思った。

よく頑張ったね、Soanよ。



【飛行機イコール死】
日本を飛び立つまでは
頑固に恐怖で震えていた。

でも、それがやねぇ。
そうでもなかったんだよね。
なんでやろ?

旅の道ずれが強運ポジティブ軍団だったせいだね。
このメンバーで飛行機が落ちるとか
全く考えられなかったからね。

彼ら彼女らのおかげで、大変心強く、
99%恐怖は感じなかった。
と、思っていた。

行きは、ワクワクのしどうしだった。
すべてが新鮮だった。
見るもの聞くもの食べるもの。
みんな刺激的だった。

キャビンアテンダントさん、綺麗だなぁ。
制服が色っぽいなぁ。とか。

そういえば、飛行機の客室乗務員、
昔はスチュワーデスて言ってたよね。
なんで名前変わったんだろう?

そうそう、
JALの破綻とかいろいろあっったんだっけ。

時代は変わる。
変わらないのは私の頑固な思い込み。

それに気づけた貴重な旅だった。

日本を飛び出すチャンスを与えてくれた、
人生のメンターに感謝!


ソーアン

機内で離着陸を確認できた。それがけっこう安心感。





サイダーとヨーグルトでラッシー作ってみた

音声はユーチューブで ラッシーが飲みたい ラッシーとは カレーと相性が良くて 辛さが和らぐ白いソフトドリンクで それを飲みたいって思って カレー屋さんで飲んだ印象では 飲むヨーグルトっ...